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スピルリナはクロレラより優れている

   

スピルリナはクロレラより優れている

第一次大戦中のドイツで始まった微生物の食糧化

微小藻類というと、一般の方はクロレラを連想されるでしょうが、私はこれからの時代は、クロレラではなく、スピルリナの時代だと思います。

微生物を大量培養して、食糧にしようとする試みは、第一次大戦に端を発しています。この発想を実行に移したのは、ドイツの科学陣で、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世の要請によるものでした。

当時のドイッは戦争の激化につれて、深刻な食糧危機に直面していました。ドイツではでんぷん質食糧である穀物やジャガイモなどが極度に不足し、タンパク質である肉、タマゴ、牛乳も欠乏し、家畜の飼料も人間用に振り向けなければならないという、せっば詰まった状態にありました。そこでドイツ皇帝はドイツの科学者たちに「新しい食糧資源の開発」を要請したのです。

科学者たちが、この皇帝の要請にこたえ、新しい食糧として提出したものが、食用酵母と緑藻クロレラでした。この食用酵母は、マックス・デルブリュック博士が開発した、バラ色酵母と呼ばれる淡紅色の野生酵母で、学名をロドトルラといいました。

ドイツ政府は、極度に欠乏した肉類その他の酪農食品を補うものとして、このバラ色酵母の工業的大量生産を計画しました。このバラ色酵母は、圧縮すると豚肉と形や色が似ています。しかも、そのタンパク質が豚肉や牛肉よりもすぐれているというので、人造肉と呼ばれました。またある人は、この酵母を「新しい豚」とも呼びました。

このバラ色酵母の開発が、微生物の食糧化に向かっての第一歩でした。そして新しい食糧として実際にある程度生産されましたが、大量生産に突入する前に、ドイツは敗戦の憂き目を見るにいたりました。

バラ色酵母が開発されたのは1917年のことでしたが、その翌年にはリンドナー教授によ って、緑藻クロレラの食糧化が開始されました。クロレラは緑藻類に属する藻類の一種であって、空気(炭酸ガス)と水から太陽光の助けによって有機物を合成することができるもので、空気食とも呼ばれました。

バラ色酵母のような食用酵母と、クロレラを比較してみると、それぞれつぎのような一長一 短がありました。

酵母は増殖力が旺盛で、量産には適していますが、クロレラはこれに比べると、増殖力の点で劣りました。また、タンパク価でもクロレラより酵母のほうがすぐれていました。 しかし、酵母の培養には砂糖のような有機物が不可欠ですが、クロレラの培養は空気と水と日光、それに少量のミネラルをもって培養することができます。この点、クロレラのほうがすぐれていました。また、タンパク質以外の栄養素でもクロレラの成分のほうが酵母より優位にあり ました。

 

米ソの宇宙開発でクロレラに再注目

ドイツは、このクロレラの大量培養法の研究に着手しましたが、研究自体がすでに敗戦間際に始められたもので、日の目を見るにいたりませんでした。しかし、ドイッのクロレラ研究は世界の科学者たちを刺激して、クロレラは学界の注目を集めました。

第一次世界大戦後、1919年にドイツの生物化学者オットー・ワールブルグ博士は、クロレラを材料とした光合成の研究を行なって多くの業績をあげました。日本では東北大学の柴田万年博士によって初めてクロレラ・エリプソイデアの純粋培養がなしとげられました。このク ロレラは、柴田博士が仙台郊外の土壌中から分離したもので、その純粋培養はその後の日本のクロレラ研究の土台となったものでした。

やがて、1939年には第二次大戦が勃発しましたが、ドイツは、いち早くクロレラの大量培養による食糧化に着手しました。ゲッチンゲン大学のハーダー教授がこの研究を担当いたし ました。しかし、クロレラの生産はテストプランの段階で終わり、実際には量産にはいたりま せんでした。研究所が爆破されたからです。第二次大戦中、微生物食糧として量産にいたった のはトルプシス・ユティリスという食用酵母だけで、クロレラは不成功に終わりました。

もちろん、ドイツについでアメリカ、イギリスも第二次大戦中、微生物食糧の開発に努力し ていましたが、微生物による油脂の生産も注目に値するものの一つでした。

ドイツは、珪藻の大量培養による油脂の生産に着手していましたが、糸状酵母エンドミセス・ベルナリスやフザリウムなどの菌類による油脂生産に成果をあげていました。1945年には、第二次大戦も終結しましたが、このときから、世界的規模における農業の荒廃と人口増加にともなうタンパク質資源の供給不足から、食糧危機の声が高まってきました。

アメリカのカーネギー研究所では、スポア博士を中心にクロレラの食糧化の研究を行なっていましたが、スポア博士は、食糧危機を打開するために日本でもクロレラの量産を行なうこと を勧告してきました。GHQ(占領軍司令部)の天然資源局長のスケンリ氏もこの案には賛成でした。

日本におけるクロレラ研究は、1951年から徳川生物研究所(1970年閉鎖)でクロレラの大量培養に関する実験研究を行なっていました。1957年に、日本政府はアメリカの勧告をいれて、日本でも独自にクロレラの大量培養を行なうことを計画し、科学技術試験研究費を支出することになり、その年に日本クロレラ研究所が国立市に設立されました。

日本クロレラ研究所は、徳川生物研究所が開発した開放循環方式を採用し、4000㎡ の屋外培養池をつくり、1958年には培養を開始しました。目標は年産12トン(乾物)でしたが、当時としては世界最大のものでした。

その後、食糧事情の好転とともに、クロレラはしだいに忘れられるかにみえましたが、1961年、ソ連が初の人間衛星船の打上げに成功すると、クロレラは宇宙航行用の食糧として、ふたたび注目を集めるようになりました。アメリカやソ連は、宇宙船内における自給食糧として、クロレラの能率的な培養法の研究をすすめていたのです。 日本クロレラ研究所は、営利を目的としない研究機関でしたが、政府の補助金が切れると経営が苦しくなり、1963年、ついに解散の憂き目をみることになり、敷地や設備の一切をヤクルト本社に譲渡することになりました。しかし、クロレラの含有する成分が医療的に有効であることから、健康食としてクロレラが注目されるようになり、1964年にはクロレラ工業会社その他が設立され、自然食としてのクロレラが生産されるようになりました。そして現在、クロレラを事業化している会社は100社を数えるにいたっています。

収穫、栄養、消化の三点でクロレラより優秀

このようにして、クロレラは儲かる事業として脚光を浴びるにいたりましたが、しかしクロ レラの量産には、いくつかのネックがあって量産を阻んでいたのです。

その第一は、クロレラは微細な単細胞の藻類でその大きさが5ミクロンと非常に小さい。このため、 その収穫には遠心分離操作を必要とし、手間と動力費がかさむことです。クロレラは、微細であるため高速の遠心分離機を使用しなければならず、このため電力をくうのです。

第二は、クロレラは厚い細胞膜におおわれているために消化がよくないことです。これまでいろいろな消化率向上のための研究が行なわれてきましたが、今日までこの問題は解決されていません。

そこへ登場してきたのがスピルリナです。スピルリナが日本に知られたのは1970年のことで、それまでは日本ではまったく未知の藻類でした。

スピルリナは、クロレラよりもいろいろな点ですぐれてい

 

このスピルリナは、クロレラよりもいろいろな点ですぐれています。

第一に、スピルリナは、多細胞でその大きさがクロレラの100倍もあり、その収穫には遠心分離操作をまったく必要としません。フロでもって簡単に収穫することができます。したがって、これまで微小藻類増産のみちを阻んで いたネックは、スピルリナによって取り除かれたといえます。

第二に、スピルリナは細胞膜が薄く、消化が非常によいということです。クロレラで問題にされていた不消化ということは、まったく問題にならなくなりました。タンパク分解酵素ペプシンによるスピルリナの消化性の試験では16時間で約80%が消化されています。

つまり、クロレラの約二倍の消化性をもっているということです。

また、クロレラは弱酸性の状態で生育しますが、スピルリナは逆にアルカリ性の状態でよく生育します。このことは、炭酸ガス供給の場合に、いちじるしい効果となってあらわれてきます。

培養液が酸性だと、吹き込んだ炭酸ガスの大部分がそのまま空気中に逃げてしまって、溶解し利用される率が低いのですが、培養液がアルカリ性の場合は、炭酸ガスが炭酸水素イオンとなって、培養液中にとどまるので、空気中に逃げていく率が低いのです。スピルリナは、炭酸ガスのほか、炭酸水素イオンもまた炭素源として吸収することができます。

このように炭酸ガス利用効率が高いということは、大きなメリットとなります。したがって、スピルリナはクロレラよりも実用性が高いということがいえます。

わたしは、将来の微小藻類企業は、クロレラから次第にスピルリナに移行していくものと考えています。

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